シンプルな動きほど奥深い―ピラティスと脳の関係

先日、神経科学者のJulia C. Basso博士が「Movement and the Neurodivergent Brain」という対談の中で、運動と脳について興味深い話をされている動画を見ました。
その中で特に気になったのが、
「movement complexity(動きの複雑性)」
という考え方です。
運動というと、これまでは「どのくらい心拍数を上げるか」「どのくらい強い負荷をかけるか」「何分運動するか」といった、運動量や強度がよく注目されてきました。
もちろん、それらはとても重要です。
しかし最近は、それとは別に、
身体を動かしながら、脳がどのくらい情報を処理し、判断し、身体を協調させているか
という点にも研究の目が向けられています。
「複雑な運動」とは、難しい技のことではない
ここでいう「複雑」とは、アクロバティックな難しい運動をするという意味ではありません。
たとえば、
動く順番を覚える。
複数の身体部位を同時にコントロールする。
左右で違う動きをする。
バランスを取りながら別の動作を行う。
外から入ってくる情報に合わせて身体を調整する。
このように、身体を動かしながら考える必要のある運動です。
神経科学では、このとき関係する働きの一つを「実行機能(executive function)」と呼びます。
実行機能とは、簡単にいえば、
注意を向ける、必要のない反応を抑える、情報を一時的に覚えておく、状況に合わせて行動を切り替える
といった「自分の行動をまとめる力」です。
Basso博士も動画の中で、有酸素運動の強さだけでなく、ダンスのように身体の協調を必要とする運動の「複雑さ」に注目していると話しています。

本当に「複雑な運動」のほうが脳にいいのか?
ここは、少し慎重に考える必要があります。
2024年に発表されたシステマティックレビューでは、運動中の「認知的な負荷」が異なる研究28件を検討しています。
その結果、運動そのものが実行機能を高める可能性に加えて、より認知的な負荷を必要とする運動のほうが実行機能に大きな効果を持つ可能性があることが示されました。
ただし研究者自身も、まだ「予備的なエビデンス」と表現しています。
つまり、かなり興味深い結果ではありますが、「複雑な運動ほど必ず脳に良い」と結論づけられる段階ではありません。
一方、80のランダム化比較試験をまとめた別のメタ解析でも、単純な持久運動だけではなく、身体の協調を必要とする運動(coordinative exercise)で認知機能への効果が比較的大きかったことが報告されています。
さらに若年・中年成人を対象とした46研究の解析でも、協調性を必要とする運動は、ワーキングメモリーや抑制機能などの実行機能に有益である可能性が示されています。
ですから、
「身体を動かすだけでなく、身体を考えながら協調させることにも意味があるのではないか」
という考えには、ある程度研究の裏付けが出てきていると言えます。
では、ピラティスは「複雑な運動」なのか?
ここからは、研究結果と私たちが行っているピラティスを分けて考える必要があります。
現在の研究から、
「ピラティスは複雑な運動だから、脳にこのような効果がある」
と直接証明されているわけではありません。
ただ、ピラティスには、先ほどの研究でいう「認知的な負荷」や「協調性」と重なる要素が多くあります。
たとえば、リフォーマーのFootwork

外から見ると、
「膝を曲げて伸ばしているだけ」
にも見えます。
でも、本人の身体の中では、
足裏から入ってくる感覚を受け取りながら、
股関節・膝・足部を協調させ、
骨盤や脊柱の位置を保ち、
スプリングから戻ってくる力に対応し、
呼吸を続け、
左右差にも気づきながら、
次の動きを予測しています。
つまり、感覚を受け取る → 脳で処理する → 身体を動かす → その結果をまた感じるということを、繰り返しています。
見た目にはシンプルでも、身体と脳の中では非常に多くの情報を扱っている可能性があります。
「複雑にすること」が目的ではない
ここで、私はとても大切なことがあると思います。
それは、
難しいエクササイズをすればいいわけではない
ということです。
むしろ、難しすぎるエクササイズでは、
「先生についていくだけ」
「何をしているのか分からない」
「身体を感じる余裕がない」
という状態になってしまいます。
それでは、身体を学習しているというより、ただ課題をこなすことで精一杯かもしれません。
運動学習を考えても、課題はその人にとって適切な難易度である必要があります。
そして、これはピラティスが昔から大切にしてきた「基本」ともつながります。
最初は単純な動き。
そこから身体を感じる。
自分でコントロールできるようになる。
そこへ少しずつ別の条件が加わる。
身体の一部分から、全身へ。
単純なものから、複雑なものへ。
そうやって身体の使い方を統合していく。
私は、ここにピラティスの非常に大きな特徴があると思っています。

ピラティスそのものの研究はどうなのか
では実際に、「ピラティスと認知機能」についての研究はあるのでしょうか。
あります。
たとえば60歳以上の女性110名を対象としたランダム化比較試験では、12週間のピラティスを行ったグループで、実行機能や言語流暢性などに改善が認められました。一方で、総合的な認知機能については明確な差がありませんでした。
高齢者を対象としたレビューでも、ピラティスの身体機能への効果については一定の研究がありますが、認知機能についての研究はまだ多いとは言えません。研究の質や方法にもばらつきがあります。
ですから現時点では、
「ピラティスをすると脳がこう変わる」
と断定するより、
「ピラティスには、脳にとって意味があると考えられている“身体と認知を同時に使う要素”が多く含まれている」
と表現するのが、私は最も正確だと思います。
マシンがあるから、さらに複雑になる?
ここも面白いところです。
リフォーマーやキャデラックでは、スプリングという外からの力が加わります。
スプリングの力を感じ、その力に対して身体を調整する必要があるため、感覚情報は増えます。
しかし、だからといって「マシンのほうが必ず複雑」とも限りません。
スプリングが身体を助けて、動きを分かりやすくしてくれることもあります。
反対に、支持を減らしたり、動く部分を増やしたりすれば、コントロールは難しくなります。
つまり器具は、
動きを難しくするものではなく、課題の複雑さを調整するもの
とも考えられるのではないでしょうか。
これは、指導する側にとって、とても重要な視点だと思います。
ピラティスの「基本」が面白い理由
今回、神経科学の研究を調べながら、改めて思いました。
FootworkもHundredもRoll Upも、
何百回やったから終わり、ではありません。
同じ動きをしていても、
今日は足裏をどう感じているのか。
脊柱はどう動いているのか。
左右はどう違うのか。
呼吸と動きはどうつながっているのか。
スプリングから受け取った情報に、身体はどう反応しているのか。
そこへ注意を向ければ、同じエクササイズでも脳が扱う情報は変わります。
だから、
「難しいエクササイズができること=ピラティスが上手」ではない。
私はむしろ、
シンプルな動きの中で、どれだけ多くのことを感じ、必要な情報を選び、身体全体をコントロールできるか。
そこにピラティスの深さがあるのではないかと思っています。
身体を動かす。
感じる。
考える。
調整する。
そして、また動く。
ピラティスとは、筋肉だけを鍛えているのではなく、
身体と脳の間で、このやり取りを何度も繰り返していく運動なのかもしれません。
参考にした主な資料
- Julia C. Basso博士「Movement and the Neurodivergent Brain」
- Chu C-L, et al. Examining the effects of exercise with different cognitive loads on executive function: A systematic review. Progress in Brain Research, 2024.
- Ludyga S, et al. Systematic review and meta-analysis investigating moderators of long-term effects of exercise on cognition in healthy individuals. Nature Human Behaviour, 2020.
- Ludyga S, et al. A network meta-analysis comparing the effects of exercise and cognitive training on executive function in young and middle-aged adults. European Journal of Sport Science, 2023.
- García-Garro PA, et al. Effectiveness of A Pilates Training Program on Cognitive and Functional Abilities in Postmenopausal Women. 2020.
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