ピラティスは「動いた先」にある

ピラティスは「動いた先」にある
〜キャシー・グラントとロン・フレッチャーの対話から学んだこと〜
最近、1950年代にジョセフ・ピラティス本人から直接学んだキャシー・グラントとロン・フレッチャーの貴重な対談のYoutubeを見ました。2005年に収録されたその映像記録は、ピラティスの原点を知るうえで非常に多くの学びを与えてくれました。
中でも、私が深く心を動かされたのは、ジョー・ピラティスの晩年の姿でした。
最近は、英語や日本語の字幕が入るので、以前と違って学ぶ事ができることに感謝です。
ご興味ある方はぜひ見ていただきたいですが、私の思うことと共にシャアしたいと思います。
評価されなかった創始者の孤独
ピラティスというメソッドは、今でこそ多くの人に知られ、実践されるようになりましたが、その創始者であるジョー・ピラティスは、生前にその価値を十分に認められることはありませんでした。
理学療法の世界からも評価されず、スタジオも閑散としていた時期、彼は怒りや悲しみを抱えていたといいます。
それでも彼は、「人の身体は寝かせてはいけない。動いてこそ治るのだ」と言い続けました。
この言葉に、私は強く心を打たれました。
それは単なる意見ではなく、人生をかけて体得した“信念”だったのだと思います。
マシンは何のためにあるのか?
もうひとつ、印象に残ったのは、ふたりが現代のピラティスマシンの改変について語っていた場面です。
「スプリングの強度が選べるようになった」
「素材や構造がより“便利”になった」
こうした変化は一見、進化のように見えるかもしれません。
けれど、ロンとキャシーは「本来のエクササイズの意図が薄れている」と警鐘を鳴らします。
私自身も、マシンの素材や仕上げ、スライドの滑らかさなどにばかり関心が向けられすぎることに違和感を抱くことがあります。
もちろん、使いやすさや安全性も大切です。ですが、それ以上に問われるべきは──
「そのマシンによって、どのように身体と向き合えるのか?」
という視点ではないでしょうか。

動いた“あと”に、理解はやってくる
ピラティスマシンの本質は、「動きを導く装置」であることにあります。
動いてみて初めて、
「あ、こういう筋肉のつながりだったのか」
「こうすると自分の体はこう反応するのか」と、
理解があとから“追いついてくる”のです。
逆に、説明だけを聞いても、理論だけを学んでも、実感が伴わなければ身体の理解にはなかなかつながりません。
ロン・フレッチャーが言っていたように──
「やってみないと、このことはわからない」
まさにその通りだと思います。

道具と身体の“対話”から生まれる気づき
ピラティスのマシンは、単なる器具ではありません。
身体の一部のように扱い、動きを通じて“気づき”を与えてくれる存在です。
だからこそ、マシンの美しさや機能性に目を向けるだけでなく、その動きを通じて「何が起きているのか」を感じ取ることが、本当の価値につながるのではないでしょうか。
おわりに
ピラティスは、動いたあとに理解が生まれる“身体との対話”です。
私たち指導者も、学ぶ側も、その本質を見失わないようにしたいと思います。
ピラティスが持つ深さと美しさ、そして創始者たちの想いを、今の時代にどう伝えていくか。
そのヒントが、このふたりの対話には詰まっていました。