違いの中で育った私が、“私”を見つけるまで

私は、小さい頃からずっと「自分は何者なのか」を考えてきました。
属したい場所に属せず、どこにも居場所がないように感じていた子ども時代。
その問いは、大人になった今でも、私の中で静かに息をしています。
違いの中で育ち、今ようやく見つけた“私”という存在**
私は小さい頃からずっと、
「自分は何者なのか」を考えざるを得ませんでした。
生まれた瞬間から異国にいて、
日本で生活しながらも
「日本人とは違う」と言われ続けた幼少期。
顔も姿も日本人に似ている。
でも、家に帰れば韓国料理が並び、家庭の文化はまったく違う。
それなのに、母国語のように韓国語は話せない——。何人って決めるときにその言葉がそれを示すんじゃないの?日本人はみんな日本語話している。私には、当たり前があたりまではありませんでした。
日本と韓国、
二つの文化の“はざま”に立ち、
どちらにも完全には属せないような感覚。
当時の日本では、
韓国人であることを
「恥ずかしい」と感じさせられる空気もまだ残っていて、また実際に両親はそんなことがないように最初から誇りを持って本名で行きなさい。と本名を名乗っていましたが、
本名で学校で呼ばれていても、自分のルーツを堂々と語れる雰囲気や時代でもありませんでした。
子どもの私にとって、それは
「自分の居場所がどこなのか分からなくなる」
そんな深い孤独につながっていました。
■ アイデンティティが確立できなかった環境で育つということ
振り返ると、
アイデンティティを築くにはあまりにも難しい環境だったと思います。
何かにつけて、「あなたは日本人じゃない」と認識させられる毎日の中、
家では韓国文化の中にいながら、
「韓国語もネイティブに話せない自分」がそこにいる。
自分の国はどこで、何語を話すのが正解なのか、またその信念、文化、軸が何なのか、
どこに立つべきなのか、
常に揺れて、迷って、
必死に“私とは何か”を探していたように思います。
でもその経験が、
今の私の深さをつくってくれたとも思います。
■ 時代が変わり、私も変わっていった
今は昔とはまったく違う時代です。
ネットがあり、
いつでも外国とつながり、
世界が一瞬で身近になる。母国を語るのが難しい時代から、世界でもトップに行く国に変化し、逆に羨ましがられる時もあるくらいに変わりました。
だからこそ、
「自分は何者なのか」という
アイデンティティがより重要になる時代になりました。
時代が変わったことで、
私自身も自分のルーツを
以前より丁寧に受け取れ、また暮らしてきたそして生まれた日本も大切に思えるようになりました。
少しずつ韓国語も学び、韓国にも訪れ、
かつて“恥ずかしい”と教えられたルーツを
今では誇りとして受け止められるようになった。
これは、
時代が変わったからだけではなく、
私自身が成長し、
強く、しなやかになったからだと思います。
■ そして、ピラティスと出会った
そんな私を救った大きなものが、
ピラティスとの出会いでした。
ピラティスは体を整えるだけではなく、
自分の存在を確かめる時間。
呼吸を通して、
動きを通して、
「私はここにいる」という感覚が
静かに、確実に、戻ってくる。
体を動かすたびに、
自分の軸、自分の存在、自分という輪郭が
少しずつはっきりしていった。
ふと思うのです。
ジョセフ・ピラティスもまた、
異国の地アメリカで自分の信念を貫いた人。
文化も言語も違う世界で、
“自分は何者か”を問い続けながら
Contrologyを築き上げた。
もしかしたら彼も、
私と同じように
「どこに立つべきか」を
ずっと探していたのかもしれません。

■ “本物”とは、実力と人間性の両方を持つこと
私は常に、
何が“本物”なのかを考えてきました。
実力だけでは足りない。
人間性だけでもダメ。
その両方があるから、
人は“本物”になる。
私がこれまでずっと
アイデンティティを探し続けてきたこと、
二つの文化にはさまれて育ったこと、
迷いながらも前に進んできたこと。
それらすべてが、
今の私の“本物”の力になっています。

■ 自分の存在は、他人と比べて見つけるものではない
自分の存在は、他人と比べて見つけるものではないと、私は思います。
もちろん、自分を認識するときは他者がいるからこそ、自分を認識することができます。だからと言って、そこに評価が入ること、自分の優劣をつけることが自然だったとしてもそれなら、ただ今までのDNAに刻まれた生きるためのなんやらのための感情が動かされているだけに過ぎません。
アイデンティティは、
他人と比べて見つけるものではなく、
自分が選択し続けてきた道の中に芽生えるもの。
私も、
自分で選んだ人生ではなく、
“選ばれてしまった環境”から始まりました。
けれど今は、
その環境を自分の力で意味づけ、
自分の軸として生きることができている。
それこそが、
私のアイデンティティです。
そして今、私は“私自身として”生きている
マイノリティとして育ち、
アイデンティティを探し続け、
時代とともに自分も変わり、
ピラティスと出会い、
自分の存在を取り戻した。
そのすべてが“今の私”。
どこから来たかではなく、
どこを選んで生きているのか。
何を大切にしているのか。
そこにこそ、
本当のアイデンティティがあるのだと思います。
ピラティスをしている人が素敵なのは、これが自然にできるようになれるからなのではないかと思います。選択・・・・そのためには、いろんな経験、行動が必要になります。
まずは、動いてみませんか?
そこから、始まるものがあるはず。













