ピラティスを極めるとは、何を意味するのか

ピラティスを極めるとは、何を意味するのか
——自分の道を歩き続けるということ——
ピラティスを続けていると、ふと考える瞬間があります。
「ピラティスを極める」とは、いったい何だろう?
この問いには、明確な“正解”がありません。
しかし、長年ピラティスと向き合ってきた私は、すこしずつ気づいてきたことがあります。
それは、
ピラティスを極めるとは、何かを“完成させること”ではなく、
答えが見えなくても歩き続ける、その姿勢そのものだということです。

■ ピラティスは「修行」のよう
身体は毎日変わり、心もまた揺れ動きます。
今日できたことが明日できるとは限らないし、
逆に、昨日できなかったことがふとできる日もある。
そんな変化の中で、ただひたすら、
自分の身体と向き合い続ける。
その姿勢は、どこか“修行”のようでもあります。
目的地はなく、終わりもない。
深めようとするその道のりの中で、
いつの間にか、自分の内側に静かな軸が育っていく——
そんな感覚があります。
■ 極める対象は「自分の中のピラティス」
技術や知識を磨くことは大切です。
でも本当に極めるべきは、
“自分という存在の中で育つピラティス”。
他人の形を真似することでも、
他の誰かの深さを競うことでもなく、
自分がどう感じ、どう動き、どう理解し、
どう生きるか——その全てがピラティスとつながっていきます。
深く学び続ける中で、
「私はこうありたい」「これは大切にしたい」という
自分なりの信念が育つ。
それは、ピラティスだけではなく、
生き方そのものを形づくってくれるものだと感じています。

■ 指導は「自分の道」とは別の道
私はよく思います。
“自分が深める道”と “他者を導く道” は、似ているようで実はまったく違う。
指導する相手は、
深さも経験も、悩みも目的も、全員が違います。
だから、教えるときに必要なのは、
自分の深さを押しつけることではなく、
その人がどんな段階でもピラティスに触れられるよう、
その人のペースで導くこと。
私はここに、
“マスター”と呼ばれるべき指導者の本質を感じています。
自分を極めること。
そして、他者が自分の道を歩けるよう支えること。
この二つは重なりながらも、決して同じではありません。
■ 市場が変わっても、ピラティスの本質は変わらない
今、マーケティングで広げる人も増え、
ピラティススタジオも一気に増加しました。
エクササイズを極めたい人、
指導技術を極めたい人、
広めることを極めたい人——
どれも間違いではありません。
けれど私は、
自分の中のピラティスを極め続ける人が
最後には一番強く、美しく輝くと信じています。
なぜなら、
表面的な技術や流行ではなく、
“生き方”としてピラティスが根を張るからです。
■ ピラティスは私の人生の道
私は、口下手だと思っていました。
言葉にするのが苦手で、
思っていることをうまく表現できないと感じることもありました。
けれど、長くピラティスと向き合ってきた時間が、
いつの間にか私に“自分の言葉”を育ててくれたように思います。
表現がうまくいかない時でも、
心の奥にずっとあった想いや大切にしてきた感覚が、
少しずつ言葉として形になっていく——
そんな変化を、最近ようやく実感できるようになりました。
ピラティスは、ただのエクササイズではありません。
身体を変えただけではなく、
考え方、価値観、生き方まで、
静かに、しかし力強く変えてくれました。
これからも私は、
自分の中のピラティスを、
続け、深め、育てていきたい。
そしてその姿勢が、
誰かが自分の道を歩くきっかけになれば、
それ以上の喜びはありません。














