ピラティス商標裁判の全貌とその背景

ピラティス商標裁判の全貌とその背景

1. ピラティスの後継者問題

ジョセフ・ピラティス(1883–1967)は生涯をニューヨークのスタジオで過ごし、「コントロロジー(Contrology)」と呼んだメソッドを築き上げました。
しかし、彼は正式な後継者を指名せず、遺言も残さずに死去

その後は妻 クララ・ピラティス(Clara Pilates, 1880–1977) がスタジオを引き継ぎました。クララはジョーの死後も約10年間スタジオを続けましたが、1977年に亡くなります。
つまり、2000年の裁判のときには、すでにクララもこの世を去っていたのです。

→ したがって裁判にはクララ本人の証言はなく、ジョー夫妻の弟子たちが法廷に立ちました。


2. 1990年代の「商標」騒動

クララの死後、スタジオの弟子たち(ロマーナ・クリザノフスカ、キャシー・グラント、ロン・フレッチャーなど)がそれぞれ教室を持ち、アメリカ各地にピラティスが広まりました。

1990年代に入るとフィットネス業界がこのエクササイズに注目し、メディアやジムで「ピラティス」が大流行。すると、この「名前」をビジネスとして押さえようとしたのが ショーン・ギャラガー でした。

  • 1992年:ギャラガーは「Pilates, Inc.」を設立。
  • 1992年:「Pilates」という名称を商標登録
  • ロマーナと契約し、「ピラティスを教えるには自分の認可が必要」と主張。
  • 世界中の指導者に対し、「ピラティスという名前を使うな」と警告状を送り始めました。

つまり、ギャラガーは「ピラティス=自分の管理下」という構図を作ろうとしたのです。


3. ケン・エンデルマンの登場

一方、西海岸カリフォルニアでは、1976年に創業した ケン・エンデルマン(Ken Endelman) の会社 Current Concepts(後のBalanced Body) が着実に成長していました。

  • ジョーのオリジナル器具は木製・重い鉄製など古い設計でした。
  • エンデルマンはそれを現代的な素材で作り直し、リフォーマーやキャデラックをより使いやすい形で大量生産しました。
  • その結果、世界中のスタジオに Balanced Body のマシンが広まることになります。

しかし、ギャラガーが「ピラティス」という名前を商標で独占したため、エンデルマンは大きな打撃を受ける可能性が出てきました。
彼にとっても、「ピラティスは公共の名前」として守ることは死活問題だったのです。


4. 法廷での戦い

2000年、ニューヨーク南地区連邦地方裁判所。
「Pilates, Inc.(ギャラガー)対 Current Concepts, Inc. & Kenneth Endelman」という裁判が始まりました。

証人たち

  • ロマーナ・クリザノフスカ
    ジョーの直弟子。ギャラガーと契約していたこともあり、「ピラティスはブランドであり保護されるべき」と主張。
  • キャシー・グラント
    同じく直弟子。「ピラティスはすでに広く一般に知られ、誰もが使うべき名称」と証言。
  • その他弟子や専門家
    ジョーを知る人物、言語学者、商標法の専門家が登場。

論点

  • ギャラガー側(原告):「ピラティスはブランド。商標として保護されるべき」
  • エンデルマン側(被告):「ピラティスは一般名称。商標独占は認められない」

新聞記事、フィットネス雑誌、業界資料も提出され、“Pilates”が「ヨガ」「エアロビクス」と同じように一般化していることが明らかにされました。


5. 判決 ― 2000年10月30日

裁判所は以下のように判断しました。

  • Pilatesは一般名称であり、商標として独占することはできない
  • ギャラガーが登録した商標は無効。
  • したがって、ギャラガーは敗訴、エンデルマンは勝訴

ただし「エンデルマンが独占権を得た」のではなく、**「誰もが自由にピラティスを名乗れる」**という結論です。

この判決によって、世界中の指導者が“ピラティス”を自由に使えるようになりました。もしギャラガーが勝っていたら、現在のようなピラティスの普及はなかったかもしれません。


6. その後も続くギャラガーの動き

2000年の裁判で名称独占は否定されましたが、ギャラガーは現在も 歴史的写真・資料の権利 を主張し続けています。

  • 2023年:ボストンのインストラクター Mary Kelly が歴史的写真を投稿したところ、著作権侵害で訴えられる。
  • 他のインストラクターも同様に、DMCA申立によりInstagramの投稿削除やアカウント停止を経験。
  • アメリカのコミュニティは Pilates Transparency Project を立ち上げ、自由を守る活動を展開中。

まとめ

  • クララ・ピラティスは1977年に死去しており、2000年の裁判には関わっていない。
  • 1992年、ショーン・ギャラガーが“Pilates”を商標登録し、独占を主張。
  • 2000年、エンデルマンが反発し裁判に。
  • 判決は 「ピラティスは一般名称。独占できない」 → エンデルマン勝訴。
  • その後もギャラガーは写真・資料の権利を主張し、今なお業界に波紋を広げている。

👉 日本ではこの経緯を詳しく知る人はまだ少ないですが、私たちが「ピラティス」と自由に名乗れるのは、この歴史的裁判があったからこそです。そして現在も、その自由を守るために闘いは続いています。




番外編ですが、
では、なぜクララは関わらなかったのか?

実は、クララが生きていた時期(1977年まで)は、

  • そもそも「ピラティス」という言葉自体がまだ世の中にほとんど知られていなかった
  • 「商標にして独占しよう」という発想が出てくるほどの市場価値はなかった

という状況でした。

クララは夫ジョー亡き後も弟子たちを受け入れ、静かにスタジオを守っていましたが、
法的に後継者を指名したり、名称を登録して保護するようなことは一切していなかったのです。


その結果…

クララの死後、スタジオを引き継いだのは弟子の一人ロマーナ・クリザノフスカでした。
しかしロマーナも、法律的に「ピラティス」という名前を保護する手続きを行わなかった。

その空白の間に、外部から入ってきたのが ショーン・ギャラガー です。
彼は法律上の抜け道を見つけ、1992年に「Pilates」という名称を商標登録してしまったのです。


まとめ

  • クララは1977年に死去していたため、1992年の商標登録には関われなかった。
  • 生前も「商標化」や「後継者の指名」は一切行わなかった。
  • その後年ギャラガーが「Pilates」を商標として登録し、独占を主張した。

👉 ですので、「クララは生きていたのに何も言わなかった」のではなく、クララが亡くなってから随分経ってからギャラガーが動いた、というのが正確な歴史であります。


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