西海岸で芽生えたピラティスの新たな波

ピラティスの歴史を振り返ると、ニューヨークを中心に展開された時代と並行して、西海岸では別の流れが育っていきました。その「西部のルネサンス」とも呼べる動きを語ってみます。

ロン・フレッチャーの登場とハリウッドでの広がり
ニューヨークでロマーナがスタジオを守っていた頃、ロサンゼルスではロン・フレッチャーが注目を集めていました。彼はマーサ・グラハム舞踊団出身のダンサーで、その存在感とカリスマ性を活かして、ピラティスを新しい形で広めました。
ウィルシャー大通りに開設したスタジオには、キャンディス・バーゲンやシェール、バーバラ・ストライサンドといったハリウッドのスターが通い、ピラティスは「セレブに支持される最新エクササイズ」として一気に知名度を上げていきます。フレッチャーは独自のアプローチを「ボディ・コントロロジー」として体系化し、ダンス的で洗練された要素を取り入れることで、多くの人にとって親しみやすいものにしました。

医療現場への導入と正式な承認
1983年、フレッチャーは整形外科医ドン・ガリスと協力し、ピラティスを病院のリハビリ医療に導入しました。マスター教師エリザベス・ラークハムが現場で指導を担当し、病院でのリハビリにピラティスが正式に採用されるという大きな前進につながりました。
さらに、支援者であるバーバラ・ハットナーが自宅を提供し、フレッチャーはコロラド州ベイルとビバリーヒルズを拠点に活動を拡大。
西部全体におけるピラティス普及の基盤を築いていきました。
器具製造の拡大と Balanced Body の誕生
この時期、急速に広がった需要に対応するため、器具製造の分野にも大きな転換が起こりました。クララやロマーナが少量を販売していた時代から、ピラティス器具はより多くのスタジオや教師にとって不可欠なものとなっていきます。
その流れの中で登場したのが、カスタム家具職人出身のケン・エンデルマンです。1980年にサクラメントで Balanced Body を設立し、大規模な製造体制を整えました。
これにより、リフォーマーやチェアが安定供給され、ピラティスは世界的に普及可能なフィットネスメソッドへと進化していきました。

ピラティス商標問題と分断の始まり
一方で、普及の拡大は新たな課題も生みました。ニューヨークの理学療法士ショーン・ギャラガーが「ピラティス」という名称や器具、教育プログラムを商標登録し、独占的に管理しようとしたのです。
この動きは、ピラティスが公共の財産であると考える人々の強い反発を招きました。ケン・エンデルマンや著者ジョン・スティールは、ピラティスを守るために法的闘争に踏み出します。
しかしこの過程で、かつての中心人物ロマーナも自らを「唯一の後継者」と位置づけ、協力を拒み、関係者の間に亀裂が生じていきました。
ショーン・ギャラガーによる「ピラティス商標問題」は、普及が広がる中で避けられない課題を浮き彫りにしました。それは、「誰がピラティスを所有するのか?」という問いです。
歴史が示すように、ピラティスは本来、公共的な価値を持つメソッドです。独占や対立に向かうのではなく、共有し合い、高め合う姿勢が必要です。日本においても、業界の成長とともに同様の課題が生じる可能性があるため、この歴史を学ぶことは大切だと言えるでしょう。
まとめ
第7章で描かれるのは、
- ロン・フレッチャーによる西海岸での普及とセレブ層への浸透
- 医療リハビリへの正式導入という歴史的成果
- Balanced Body の誕生による器具供給体制の確立
- そして、ショーン・ギャラガーによる商標問題と業界内の分断
これをもう少しまとめると
まとめ ― 今の多様性の理由 - ロン・フレッチャーらによる 地域的・人物的な違い が、多様なスタイルを生んだ
- 医療導入により 公共性が高まり、広い価値を持つメソッド となった
- Balanced Body の登場で 世界規模での普及が可能 になった
- 商標裁判によって 「ピラティス」という名前は公共に開放 された
という、現代のピラティスを形作る上で欠かせない出来事です。
- こうした歴史の積み重ねが、今日の「クラシカル」「コンテンポラリー」「モダン」など、さまざまなピラティスの流派や解釈が共存する状況を生み出しています。
- つまり、多様性と自由さは「偶然の産物」ではなく、闘いと努力の結果として守られたものなのです。
西部でのルネサンスは、普及と制度化を加速させる一方で、新たな対立の幕開けでもありました。この時代の動きがあったからこそ、今日の多様で国際的なピラティスの姿が存在しているといえるでしょう。