ピラティス存続の危機と、ロマーナがもたらした再生

ピラティス存続の危機と、ロマーナがもたらした再生
ジョセフ・ピラティスの死後、ニューヨークのスタジオは存続の危機に直面していました。彼の妻クララと数人の弟子が必死に守り続けたものの、資金も枯渇し、運営の仕組みも整わず、閉鎖は時間の問題と思われました。家賃を滞納すれば立ち退きを迫られ、授業料の前払いでしのぐしかない状況。運営は“奇跡的に続いている”と表現するのがふさわしいほど危ういものでした。

それでも、コントロロジー(ピラティス)を途絶えさせるわけにはいかないと考えた関係者たちは、立て直しに向けて動きます。法律や経営、財務に強い人材を迎え入れ、法人化を進め、実行委員会を結成しました。最初の会議で掲げられたのは、明確なひとつの方針――「スタジオを閉じない」という決断でした。
ロマーナの帰還と再生の息吹
存続を決めたものの、リーダーの不在は大きな課題でした。その答えはすぐに見つかります。ジョーの直弟子であり、彼の教えを深く理解し体現していたロマーナ・クリザノウスカです。クララも強く彼女を推し、やがてロマーナはスタジオに戻ることを決意しました。

彼女が加わると、スタジオは再び活気を取り戻しました。ロマーナの情熱とカリスマ性は多くの人を惹きつけ、ダンサーや俳優、振付師など舞台芸術に関わる人々が次々と訪れました。そこに広がっていたのは、単なる運動の場ではなく「魔法のような場所」。自分の身体だけでなく、人生そのものを変えていけるような体験を提供する空間だったのです。
新たな試み 〜バレエ学校との連携とグループ指導
ロマーナは単にジムを存続させただけではありませんでした。彼女は新しい展開にも積極的でした。その一つが、バレエ学校へのピラティス導入です。バレエダンサーのための補強トレーニングとしてピラティスを取り入れ、彼らの身体づくりをサポートしたのです。
それまでのピラティスは個人指導が中心でしたが、バレエ学校を通してグループ指導の形が広がり、より多くの若い世代がピラティスに触れる機会を得ました。ここから「ダンサーのためのピラティス」という認識が定着し、後にピラティスが世界中に広まるきっかけの一つとなったのです。
エアロビクス時代の影響
同じ時期、ニューヨークではエアロビクスが爆発的なブームを巻き起こしていました。大音量の音楽が鳴り響く中、インストラクターがマイク片手に群衆をリードし、跳ねたり、手を高く振り上げたり、全身を使って汗を流す――その熱狂は街中を席巻しました。

※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エアロビクスは「楽しい・社交的・気分が晴れる・痩せられる・セクシーになれる」といったイメージを伴って広まりました。実際に、参加者はレッスン後に心地よい疲労感や達成感を味わい、「運動した」という満足感に浸ることができました。私自身もかつてエアロビクスをしていた経験があるので、その魅力と高揚感はよくわかります。確かにあの時代、多くの人々にとってエアロビクスは「健康でいるための最先端の方法」と思われていたのです。
しかしその裏で、多くの人が膝や足首を痛め、疲労骨折や靭帯損傷に苦しむことになりました。強い衝撃を繰り返すことで関節や筋肉は悲鳴を上げ、身体は次第に壊れていったのです。
ここに、ピラティスとの大きな対比が見えてきます。ピラティスは「正確さ・コントロール・集中」を重視し、意識的に身体を動かすことで強さとしなやかさを養います。これに対してエアロビクスは「無意識の大きな動き」と「群衆の一体感」に依存していました。つまり、一時的な高揚感と引き換えに身体の破壊を招く運動と、静かに長期的な変化をもたらす運動法――この両者は真逆の存在だったのです。
そして興味深いことに、この時代の空気はピラティスの現場にも影響しました。少人数・個別指導を大切にしてきたピラティスに、大人数や効率性を求める風潮が入り込んできたのです。ロマーナ自身もバレエ学校でのグループ指導を行い、時代のニーズに応えつつ、それでも「ピラティスの本質」を失わないよう努力を続けました。
ロマーナという存在
ロマーナは堂々とした存在感を放ち、妥協を許さない強さを持つ人物でした。愛犬をスタジオに連れてくる習慣でも知られており、反対の声があっても決して譲りませんでした。「私は犬を連れてくる。それで終わり。」――その言葉に象徴されるように、彼女は自分の信念を曲げない人だったのです。
同時に、人を見抜く力と深い愛情を併せ持っていました。本気で学ぶ者には厳しくも徹底的に指導し、そうでない者には自然と去っていく道を選ばせました。さらにユーモアと毒舌で場を和ませ、「頭を使いなさい! ここはブロードウェイじゃないのよ!」といった言葉は、生徒を笑わせながらも本質を突くものでした。

終わりではなく始まり、そして現代へ
こうして崩壊寸前だったスタジオは、ロマーナの帰還と新しい試みによって再生しました。誰もが「もう終わりだ」と思ったその瞬間に、実は未来への扉が開かれていたのです。
私はこの歴史をたどる中で、現代において「クラシカルピラティス=ロマーナピラティス」と呼ばれる理由がはっきりと理解できました。ジョーの死後、クララの支えとともにピラティスを守り抜いただけでなく、新しい時代の要請に応え、教育機関やグループ指導の場にまでピラティスを広げていったのはロマーナでした。彼女がいなければ、ピラティスは閉ざされた小さな世界で終わっていたかもしれません。
クラシカルピラティスという言葉の裏には、ジョーの体系を忠実に継承しながら、同時に普及の形を切り開いたロマーナの姿が重なっています。だからこそ、今日「クラシカルピラティス」といえば多くの場合「ロマーナピラティス」を意味するのだと思います。