幸いなことに、彼には弟子がいた

幸いなことに、彼には弟子がいた

〜ピラティス継承の視点から〜

1967年、ジョセフ・ピラティスがこの世を去ったとき、彼のメソッド「コントロロジー」は大きな岐路に立たされました。なぜなら彼は、正式な記録や文書、体系的なマニュアルを残さなかったからです。

社会保障番号もなく、結婚証明書もなく、銀行口座もなし。市民権すら取得していませんでした。弟子やクライアントの「身体に刻まれた記憶」こそが唯一の遺産だったのです。


クララの役割:指導の「方向性」を守る存在

ジョーの死後、妻クララはジムを守り続けました。
帳簿も整備されず、経営的には不安定でしたが、彼女は「ジムを開け続ける」ことに集中しました。

クララの指導スタイルは特徴的です。大声で理論を語るのではなく、必要なときに一言だけ方向を与える。

  • 「ジョーはこう言っていたわ」
  • 「もっと自然にやるように、と」

このシンプルな言葉が、弟子にとっては身体感覚をつなぎとめる“錨”になっていました。ここに指導者が学ぶべき本質があります。言葉ではなく、感覚を導くこと。

クララは暖かく弟子たちを見守り続けました。


弟子たちの多様性と分岐

弟子たちはやがて独自の道を歩みます。

  • ダンサーと結びつけ、芸術的な身体表現へ広げた者
  • 医療やリハビリテーションに応用した者
  • 新しい解釈を加え、自らのスタイルを築いた者

この動きは、今日のピラティスの多様性、流派が生まれるきっかけであり、

さまざまに、枝葉に別れていきました。

ここで重要なのは、**「正統性」ではなく「解釈の幅」**です。

弟子たちはそれぞれ個性が強く、やがては異なる方向へ進んでいった。ある者はダンスの世界でピラティスを広め、ある者は治療やリハビリの手段として応用した。さらに別の者は、独自の解釈を加えて新しいスタイルを築き上げた。

その一方で、ジョーが築いた「オリジナルの体系」を守ろうとする者もいた。彼らは、メソッドの変容や分岐を憂い、忠実に伝えることに使命感を抱いていた。

こうして、ピラティスは一つの「流派」ではなく、複数の枝へと分かれていくことになったのである。

この光景を見て、「もしジョーが今ここにいたら、どう思っただろうか」

彼は自分の仕事を芸術だと信じていた。その芸術が、彼の死後に多様な形に展開していくことを、誇りに思ったのだろうか。それとも、不本意に感じたのだろうか。

答えは誰にも分からなかった。

だが確かなのは、「彼の弟子たちがいたからこそ、ピラティスは消えなかった」という事でした。


指導者が学ぶべき教訓

この歴史から得られる示唆は明確です。

  1. 記録よりも身体に刻むこと
     ピラティスはテキストではなく「体験」で伝わる。
  2. シンプルな指導の力
     クララの一言が弟子を動かしたように、余計な理屈よりも「核」を伝える言葉が大切。
  3. 分岐を恐れず、しかし原点を忘れない
     弟子たちがそれぞれの道を歩んだからこそ、今の多様性がある。だが私たちは常に「ジョーの体系」に立ち返る必要がある。

結びに

「幸いなことに、彼には弟子がいた」「Fortunately, He Had Disciples」
この一文は、単なる歴史の事実以上の意味を持ちます。

それは「指導者としての責任」の象徴でもあります。
自分の言葉や指導が、未来にどう受け継がれるか。
そこに思いを馳せるとき、私たち指導者は今の一言・一動作の重みを改めて意識するのです。

これは、Caged LIONという本から、ジョーの亡くなった後の様子を書いています。

ジョーが亡くなった時、何も残さなかったことが、今日につながってきたのかもしれません。ジョーがもし、その後のことを考え、体系を立てて遺言を残していたのなら、また違ったピラティスになっていたのかもしれませんね。

ジョーはコントロロジー、学問であると言ったので、一つの事柄に対し、いろいろな捉え方があると考えて、このコントロロジーを捉えていたのだと考えられます。

もしかしたら、今、ピラティスと言えるのかと思うようなものも現実にピラティスをされていますが、それでジョーは良かったのかもしれません。

ジョーが亡くなった直後、ジムに集まってきたのは、長年の弟子やクライアントたちだった。彼らは皆、それぞれの理由でこの場所に通い続けていたが、共通していたのは「このメソッドを絶やしたくない」という思いだった。

クララは彼らに向かってこう言った。
「ジョーはもういない。でも、彼のやり方は私たちが知っている。だから続けなければならないの。」

弟子たちは、それぞれが見聞きしたジョーの教えを頼りに、クライアントへ指導を始めた。だが、誰もが同じようにジョーを理解していたわけではなかった。ある者は彼の強烈な個性や厳しさを語り、ある者はその合理性や体系を強調した。弟子たちの記憶や解釈はさまざまであり、次第にそこに差異が生まれた。

クララはそうした違いを咎めることはなかった。彼女にとって重要だったのは、ジムを開け続け、人々にジョーのメソッドを実践させることだったからだ。


当時のニューヨークでは、ピラティスはまだ「秘密の方法」のように扱われていた。知る人ぞ知るメソッドであり、広く普及していたわけではなかった。ダンサーや一部のアスリート、体の調整を必要とする人々が口コミで訪れる程度だった。

それでも弟子たちは、ジョーの死をきっかけに一層結束を強めた。ジムの中には、ジョーから直接学んだ動きや指導法を、文字通り体に刻み込んでいた人々がいた。彼らの存在が、ピラティスを「絶えさせない力」になったのだった

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